「中絶する権利」?

id:kmizusawaさんのこちらのエントリを読んでふと思い出したこと。
もう6、7年前の話になると思うが、とある女性学系の掲示板である男性が「胎児は人間であり中絶は殺人だ。中絶は女性の権利だなどというあなた達は殺人者だ。生まれる前の胎児は人間ではないというなら、出産直前の胎児を殺すことを想像してみなさい。あなた達にはそういう想像力が欠けている」といった発言(かなり前のことなので不正確なところもあるかもしれないが)を繰り返していた。当然のごとく論争(というほどかみ合ってはいなかったけれど)になったのだが、あるとき「レイプや戦時性暴力で妊娠し中絶した場合でも殺人者だと思うのか」と尋ねられた男性はこのように答えた。「私はすべての中絶を禁止すべきだとはいっていない。レイプや母胎が危険な時の中絶は当然認める。それは殺人ではなく正当防衛だ」。
現在の法律の枠内で考えるならば、相手(胎児)を殺害するほどの防衛が正当と認められるのは、自分の生命が(この場合は出産によって)危険に晒されるときだけであり、レイプはそれに該当しないだろう。ただし、問題はそんなことじゃない。この男性は散々中絶する、あるいは中絶を擁護する女性を殺人者だ、想像力が足りないと罵っておきながら、レイプによって妊娠した胎児が中絶されることに対して一片の想像力も働かせてはいなかった。一体レイプでできた胎児と軽い気持ちで性行為をしてできた胎児との間にどんな違いがあるというのか。軽い気持ちで性行為をしてできた胎児の苦しみに思いを馳せるのならば、レイプでできた胎児の苦しみにも同様に思いを巡らせるべきだ。結局彼にとって胎児とは、自分の主張を正当化するための道具に過ぎなかったのではないか*1。そしてその主張とはおそらく、中絶するかしないかを女が決めるのはけしからん、ということだ。
しばしば中絶の問題が「権利」という言葉を用いて語られるとき、「胎児にも権利がある」との反論、反応をされることがある。しかし、この場合の権利とは胎児の権利と対立させる形でもち出されたものではないのではないか。特に近代以降の日本の場合には欧米と異なり「いかなる場合の中絶も認めない」との言説はほとんどなかった(少なくとも大きな声となることはなかった)ように思われる。日本において問われていたのは中絶の是非ではなく、いかなる場合に中絶を認めるか、それを誰が決めるか,ということだったのではないか。だから女達が「権利」という言葉でいおうとしたのは、「それを決める権利はお前達(夫、父、国家、家父長制)にはない、私たちにあるのだ」ということだったのではないか(でもこの辺の流れはちゃんと文献や資料で確認しておこう…)。


ところで、「中絶の権利」という問題については、「産まない(ことを決める)権利」ばかりが取り上げられる気がする。しかし、「産む・産まないは私が決める」という言葉からも分かるように、そこには「産む(ことを決める)権利」も当然含まれている。これもうろ覚えなんだけれども(家に文献があった気がするんだけどすぐにみつからない)宮崎哲弥が、自分は母親が中絶しようとしたがある親戚の反対で回避された、だから産まれてこなかったかもしれない人間として、女性の中絶の権利には賛成できないというようなことを言っていた。私の場合、母親が私を妊娠したことに気づかずレントゲン検査を受け(今ではごく初期のレントゲンは問題ないといわれているようですが、当時はそうではなかったのでしょう)担当の医師に「どうしますか?(堕ろしますか?)」と尋ねられたのだそうだ。母は「いやですよ、産みますよ」と即答した。状況によっては産まれてこなかったかもしれない私は、母が産むと決めてくれたおかげでここにいる。私は宮崎氏と同じ立場から、女性の中絶の権利を擁護できる。大切なのは望まない妊娠をなくすことで、それが達成されない間は女性の中絶の権利を擁護しなければならない、と私は思う。

*1:中絶シーンのビデオをを使ったり、サイトのトップページにバラバラの中絶胎児の写真を載せている反中絶団体にも同じものを感じてしまう