『バックラッシュ!』上野千鶴子のマネー解釈への違和感

ようやく『バックラッシュ!』の上野インタビューを読んだ。上野千鶴子の講演録や対談を読むと話が上手というか、パッと見とても明快な議論をしているようで分かりやすいような気がするものの、よく読むと話を単純化しすぎたり強引に独自の解釈に基づいて議論を展開するようなところがあって、実際には話がよく分からなくなってしまっている、という印象を受けることがある。
今回のインタビューにもそのようなところがいくつかあって、一つはmacska dot orgの「上野千鶴子氏『バックラッシュ!』掲載インタビューのバックラッシュ性」でmacskaさんが批判していた「「ジェンダーフリー」概念とセクシュアルマイノリティの関係」についての議論、もう一つ(細かいところではもっとあるけど)はジョン・マネーの研究について触れた件だ。
「(前略)フェミニズムジェンダー理論はマネーの議論によっている、マネーの実験が失敗していたのだから、ジェンダーという概念は学問的使用に耐えないものである、というように。その流れで上野さんも批判されています。上野は『差異の政治学』(岩波書店二〇〇二年)のなかで、マネーを評価しているじゃないか、と。」という質問に対して、上野氏は次のように答えている。

トランスジェンダーの例を一例でも持ってくれば、彼らの論拠は崩壊するでしょう。遺伝子が男であり、男として育てられた人が、ジェンダーについては女を選ぶ場合がある。これは、ジェンダーが生物学的なものではなく、社会的なものであるということの強力な例証になるはずです。

それに続いて「ブレンダの例が反証されたからといって、ジェンダーアイデンティティの決定要因を生物学だけに還元することはできません」というが、これは事実だ。しかし、上の引用からこの結論を直接に導き出すことはできない。というか、上の引用の前半と後半部分のつながり自体が変だ。「遺伝子が男であり、男として育てられた人が、ジェンダーについては女を選ぶ場合がある」。これに続く議論から、この場合のジェンダーとはジェンダーアイデンティティだと思われるし、上野氏がここで想定しているのは広い意味でのトランスジェンダーであるというよりはGIDの人のことだと推測する。しかし、「遺伝子が男であり、男として育てられた人が、ジェンダーについては女を選ぶ場合がある」ことは、ジェンダーアイデンティティ)がむしろ生物学的に生まれつき決定されているものだということを裏付けるものであり、社会的なものであるということに対する反証と解釈することもできる、というよりこの場合はそう解釈する方が自然だ(もちろん、「ブレンダ」とは逆の事例*1もあるので、あくまでも上の引用を前提とした場合、ということですが)。これはバックラッシュ派の主張となんら矛盾するものではないどころか、それを支持するものにもなりうる。
けれども、マネーの(「ブレンダ」以外の)症例から導き出すべきことは上野氏のいうようなことだろうか。そうではなくて、「身体的には男である人が、ジェンダーアイデンティティ)については女であることがある」というだけで十分ではないか。つまり、マネーのジェンダー理論への貢献とは、セックスとジェンダーを区別した、ということに尽きるのではないか。バックラッシュ派に対しては「セックスが男であるからといって、その人が男としてのジェンダーを持つとは限らない。だからその人が生物学的に男であるからという理由だけで、男らしさを押しつけるべきではない」といえばそれでいい。もしくは「マネーのいうジェンダーとはジェンダーアイデンティティのことなのだから、「双子の症例」が反証されたからといって「ジェンダー」概念に影響はない」でもいいのかもしれないけれど。
というか、『差異の政治学』のなかで上野氏は

マネーとタッカーの業績は次の二点にまとめることができる。第一に、生物学的還元説に対して、セックス(生物学的性差)とジェンダー(心理学的性差)は端的に別なものだと明らかにしたこと、第二に、だからといってジェンダーが自由に変えられるようなものでなく、その拘束力が大きいことを証明したことである)

と書いているんだけど、なぜ上のような発言が出てきちゃったんだろう?

*1:正常な男児として生まれた患者が女として育てられ、女としての自己認識を持ったまま生活している例。『バックラッシュ!』小山エミ論文を参照のこと