またか…

最近JRの駅で福岡県のDVに関するポスターをみかける。地方タレントの女性(去年あたりは柔道の日下部基栄だった)が胸の前で手を十字に組むポーズ(女性に対する暴力根絶のためのシンボルマークのポーズ)をとっていて、「DVは犯罪です」(だったかな?)のコピーと相談窓口の番号等が書いてある。それだけならいいんだけど、女性のセリフのような感じで「勇気を出してNo!を」とか書いてあるんだな、これが。


いじめストップをアピール、子どもの自殺相次ぎ 文科相(asahi.com)

子どもたち向けのアピールは「未来のある君たちへ」との副題で、いじめている子には「いじめをすぐにやめよう」。いじめられている子には「だれにでもいいから、一人でくるしまず、話すゆうきをもとう」などと呼びかけている。



なんだって、いじめや暴力を受けている側が「勇気」を持てといわれなければならないんだろう。そこには「加害者の意識や行動を変えるのは難しい=解決につながりにくい」という考えがあるのだろうし、それはある程度事実かもしれない。けれどもなぜ「相談してください」「誰かに話すという方法もあるよ」ではなく、「勇気」という言葉を用いるのか。
加害者に呼びかけず被害者に「勇気を」呼びかけるという方法が、単に加害者を放置することにとどまるならまだマシかもしれない(もちろん問題アリアリだが)。けれども被害者に「勇気を」と呼びかけるやり方は、一人で耐えている被害者、行動を起こせなかった被害者への「話さなかったあなたが悪い」「勇気を出せないあなたの問題だ」という攻撃に容易に転化する可能性をもっている(実際、すでにそうやって被害者を責めている人がたくさんいる)。ただでさえいじめられたり暴力をふるわれたりしていっぱいいっぱいの(かもしれない)被害者が、何でさらに「勇気」を持つことまで要求されなければならないのか。「勇気」なんて言葉は本当にギリギリのところにいる被害者にとっては何の役にも立たない、むしろ害の多いものじゃないか、とさえ思う。
もちろん「相談できるなら相談する」「誰かに話せるなら、話そう」という言い方で相談を促すことはありだと思うが、だれかに話したり頼ったりすることが「勇気」にもとづいている必要なんて、全くない。