新年早々

山谷えり子の記事を取り上げるのもどうかと思うが、とりあえず気になったので。
山谷えり子・首相補佐官「教育再生は食卓から」

経済界は、生まれて間もない赤ちゃんが自宅で両親と多くの時間を過ごせるよう、短時間勤務や在宅勤務、育児休暇の取得推進など、子供のことを考えた就労形態をもっと考えてほしいと思います。目先の利益を追い求めて女も男もヘトヘトになったら、男女共同参画社会どころか企業も社会もなくなるわけですから。

山谷さんの発言は好意的にみれば「男性も女性も仕事と家庭を両立できるような就労形態を整えないと、男女共同参画の実現どころか企業も社会も立ち行かなくなりますよ」と読むこともできるのだが、これに産経新聞がつけたリードは「男女共同参画どころか社会が崩れる」。なんだか意図的に「男女共同参画が社会を崩壊させる」と読めるような見出しにしたんではという気がしてしまうのは考え過ぎかしら。まー、もしかしたら山谷さんの意図を汲み取ったのかもしれんが。

「各省庁の政務官有志でつくるプロジェクトチームが昨年、『家族を大切にする意識を高め、結婚や出産を自然な生き方と考える次世代を養成する』と、家族再生が少子化対策だという方針を打ち出しました。

これはつまり・・・洗脳?


今朝の朝日の記事に「「少子化対策の拡充に本気で取り組む必要がある」(首相周辺)と判断。「家族の再生」などを掲げ」とあったのだが、本気で考えた結果が「家族の再生」ですかorz。その一方でホワイトカラー・エグゼンプションのような制度を導入しようしたり、生活保護母子加算が廃止されたりしているのだから、どこが本気なんですか?と思わずにいられないよなあ。

全国には3000以上もの子守歌がありますが、子守歌を歌っていると、その地域に生まれ、子育てをしたお母さんたちの祈りと喜びと嘆きが感じられて、『ああ、私は独りぼっちで子育てしてるんじゃないんだ』という気持ちになります。

私が知っている昔ながらの子守唄は、3000あるらしいうち片手で数えられる程度なので間違ってるかもしれないのだが、日本の子守唄の中には母親ではなく子守りの娘が自らの辛い境遇を嘆きつつ歌ったものがかなり含まれているのではなかろうか。とりあえず私でも知っている有名どころの「島原の子守唄」「五木の子守唄」「竹田の子守唄」などは親が歌ったものではなさそうだ。「江戸の子守唄」は親が歌ったのかもしれないが、「ぼうやのおもりは どこへいった あの山越えて 里へいった」と子守り娘の存在をうかがわせる歌詞が入っているし。私の父母の世代でも、特に農家では幼い子どもの世話は母親よりも年長の子どもや祖父母がすることが多かったようだ。もちろん地域差や階層差があるだろうから、母親が主に子どもの世話をするということもあっただろうが、いつの時代もどこの地域でもそれが主流だったとはいえないだろうし、子守唄にお母さんたち「だけ」の祈りと喜びと嘆きが込められているということもないだろう。ちなみに私の場合は子守唄といえば「島原の子守唄」だった。母親は愛情込めて歌ってくれたかもしれないが、唄の内容は母親の祈りだの喜びだのとは無縁のものだよなあ。これはからゆきさんのことを歌った唄といわれているそうで、私も幼い頃「姉しゃんなどけいたろうかい 青煙突のバッタンフル」という歌詞について母親から「船のコンテナに入れられて運ばれる途中で食べ物がなくなって死んだり、死んだ他の娘の肉を食べてしのいだりということがあった」という話(本当かどうかは分からないが)を聞いてガクブルした記憶がある。そして私も現在子どもに愛情込めて歌うのだが、「鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい」が怖いらしく嫌がられるのであった。山谷さんに限ったことではないが、「伝統」や「歴史」の重要性だの尊重だのといいながら、それらのいいところだけつまみ食い、どころか自分たちの都合のいいように脚色しちゃうところがイヤだわあって思うんだな。


最後に、下の方にある「この記事の「関連フォト」」のところの写真が偶然なんだろうが絶妙でワロタ。