「レイプされそうになったらさせなさい」の覚悟

書くことがまとまらなくてやや時期を外してしまった感はあるものの。


先日、綾戸智恵がテレビで、単身アメリカに渡るときにお母さんから言い渡された4ヶ条を紹介していた。その中のひとつに「レイプされそうになったらさせなさい」というのがあったのだが、これを聞いたときに、以前本で読んだ門野晴子さんの言葉を思い出した。
門野さんが娘さんに告げたという、「もしも運悪く、レイプされそうになるようなことがあったら、下手に抵抗しようなんて思わなくていい。とにかく生き延びることだけを考えろ。生きて帰って来さえすれば、あとはあたしが全力であんたを守ってやる」というもので、かなり前にライブラリーで立ち読みしただけなので(今その本を探してるんだけどまだ見つからない)もしかしたら全然違っているかもしれないが、私の中にはこういう言葉として残っているということで。
実はこの言葉をちょっと前にも思い出していて、それは例の沖縄の女子中学生の事件のときだ。あの時被害者の「落ち度」を取り沙汰した一部新聞や週刊誌への批判に対し、他の女性を守るためだ、自衛を促しレイプ被害を避けるためだ、と擁護する向きがあった。しかし、どれだけ自衛していても、レイプに遭わないという保証はない。昼間に歩いていたって被害に遭う人はいるし、もし一歩も外に出ずに家に閉じこもっていたとしても万全ではない。家に押し入られるかもしれないし、場合によっては家の中の誰かにレイプされる可能性だってゼロではないのだ。だいたい被害者を「落ち度」のある/ないに分けることにどれほどの意味があるだろうか。「夜出歩くからあんな目に遭ったんだ」という言葉を、同じように「あんな目」にあった「落ち度」のない被害者は他人事に思えるだろうか。だいたい何が「落ち度」かなんて、恣意的に決められてしまうものなのだから。
だとすれば、門野さん(そしておそらくは綾戸さんのお母さんも)のような態度こそ、本当の意味でレイプ被害から誰かを守る、ということじゃないだろうか。以前電車内での強姦事件について「被害者が悪い」とを書いていた人物(腹立つのでリンクしませんが)が、上の言葉を取り上げて、「女性はそのくらいの意識と覚悟を持っておくべき、という点で、自分と綾戸さんのお母さんとは同じことを言っている」と自分勝手に結論していたが、同じであろうはずもない。門野さんや綾戸さんのお母さんの言葉が求めているのは、「レイプに遭うかもしれない」という「あなたの」覚悟などではなく、「何があっても私はあなたの味方だ」という「私の」覚悟であり、「あなたがレイプされたかどうかなんて大した問題じゃない。あなたが生きていることが何よりも大事だ」という、相手の存在の丸ごとの肯定だと思う。門野さんの言葉を読んだとき、スゴいなと思ったし、今では自分も子どもにこういってやれる親になりたいと思っている(簡単ではないけれど)。
別にすべての人がすべての被害者を肯定しろ、なんて思っているわけではない。被害者に対し「なんでそんな時間にそんなところに行ったの」などという素朴な感覚をもつことも否定しない。ただ、その素朴な感覚をためらいもなく表明するような人には、あんまり「守る」なんてことを言ってほしくないとは思う。