嘉穂劇場で子どもキャンプ 今年も実施、定員100人募集中 伝統文化を体感して

今日の夕方のニュースでキャンプの様子を紹介してました。で、「升席に寝泊まり」ということで、当然ながら男女同室です。
んまっ!こんなところにもジェンダーフリーの影響が!!



というのはもちろん冗談ですが。この100人の子ども達とその保護者(応募が100人を超えたため抽選になったらしいので、実際にはもっと多くの子どもと保護者)は、男女が同じ部屋で寝泊まりすることを了承しているわけですよね。それはもちろんジェンダーフリーに毒されているから、ではなくて、100人の子ども+スタッフ+1、2年生の保護者が一つの部屋で寝泊まりしている状況で、性的な問題が起きるなどとは考えもしていない、あるいはまあ起きないだろうと思っている、もしくは万が一なにか起きたとしてもすぐに対応が可能だと考えている、といった理由によるのではないかと思うのです。「男女同室」といってもごく少数の男女を鍵のかかる部屋で寝泊まりさせるのと、百数十人が雑魚寝しているのとでは全く意味合いが異なるわけで、その辺の文脈を捨象して「男女同室」という言葉に反応するのがいかにバカらしいか、ということが分かると思います。
とはいえ「府中青年の家事件」の場合にはまさに「同性が同じ部屋に寝泊まりする」というのが問題化されたわけで、同性同士なら何の問題もないとされるわけではない。結局、男女同室云々という話と「府中青年の家事件」に共通しているのは、他人を過剰に性的な存在とみなすことなのではないかと。
男女同室宿泊と並んでしばしば「悪しきジェンダーフリーの風潮」とされるのが男女混合体育ですが、私の小学校は柔軟体操等は男女別だったものの、子どもの頃から背が高くいつも一番後ろだった私は男子とペアを組まされることも多くありました(女子が奇数で余る)(追記:うちの小学校は男女別の生年月日順名簿で、私の誕生月は5月です。断じて男女混合名簿の陰謀ではありません)。そのこと自体はなーんとも思わなかったけれど、変にひやかされたりからかわれたりするととっても不快でした。それはきっと、自分たちにはそんなつもり更々ないのに、性的な何かを勝手に見出されることに対する不快感だったんじゃないかと思うわけです。男女混合騎馬戦なんかについて同じように感じる子もいるんじゃないかと思うんですよね。
男女同室けしからんとか、男女が肌を合わせるのはイカンとかって騒ぎ立てるのは、その裏のメッセージとして「お前たちは性的な存在だ」(しかも異性愛限定で)ということを伝えてるわけで。もちろん、男女混合がイヤだって子に対する配慮は必要だと思うけど、自分を性的な存在とみなされるのがイヤだって子に対しても同じだけの配慮をしたっていいんでない?と思ったり。