命の大切さ考えて。県教委など道徳教育重視(岩手)

id:kaikai00さんの8/16のエントリ経由で読んだ記事。この取り組みそのものについてはkaikai00さんが鋭い批判をされているのでそちらをごらんください。


というわけで、いつものことながら細かいことについて感想。

県警によると、県内の刑法犯少年は2005年は982人で、前年比21・2%減と大幅に減った。ただ、今年1月には男子高校生による母親殺害事件が起きている。釜石JCは、その原因が道徳力の低下にあるととらえ、

全体の傾向より1つの事例を優先・・・。


県教委学校教育室の藤岡宏章指導主事は「昔は悪いことをすると、地域の怖いおじさんがしかってくれたり、ガキ大将が年下の面倒を見たりして、自然と規範の心が身についた。

なぜこういうとき、「怖い」おじさん、「ガキ大将」という言葉が使われがちなんだろうか。
実は母親の話では実家の父親がどうも「相手かまわず注意する(怒鳴りつける)おじさん」になっているらしいのだがorz、たとえ言っていることは正しくても(道にゴミを捨てるな、とか)いきなり怒鳴りつけたり、無関係な問題について説教をしたりといった方法をとれば説得力は半減してしまうと思うし、相手は反発を感じるだろう。
個人的な体験を振り返ると、私が子どもの頃にも近所の「怖い」おじさんはいたし、小中高校では「怖い」(より正確には「暴力的な」)教師もいた。けれどもそういう人たちから「規範」を学んでいたかというと、必ずしもそうとはいえない。それよりも「説教されると厄介だから」「殴られるのはいやだから」とりあえずおとなしくしておこう、という感じの子が多かったように思う(まあそれもある意味社会で行きていく「ルール」かもしれないが)。
もしも「怖い年長者」から子どもが学ぶのが上のようなことだとしたら、それは結果として「あのおばちゃんに怒られるから静かにしなさい」という注意の仕方とどれほど異なるというのだろう(私自身こういう注意の仕方は大嫌いではあるが、あくまでもそこから派生する結果の話として)。
もちろん年長者が子どもを叱ったりするべきではない、といいたいのではない。けれどもなぜそれは「怖いおじさん」「ガキ大将」によるものとして語られがちなのか? なぜ「地域のおじさんがしかってくれたり、年長の子どもが年下の面倒を見たり」でないのか? 近所のおばちゃんに「そういうことはしたらダメだよ」と優しくいわれて「ああ、そうだ、いけないな」と思うことだってあったんじゃないか。こういう話をする時に「怖い」とか「ガキ大将」とか「規範の心」とか言っちゃうのは、単なるノスタルジーなのではないか。
現実に今現在の教育の問題を語る時に、やたらとこういう「昔はよかった」的な話が枕詞的に出てくるのに違和感。