「知らない人についていってはいけない」では生温い

沖縄での暴行事件について、「米兵のやった行為は断じて許されるものではない」といいつつ「『知らない人についていってはダメ』というしつけがなされていなかった」などと被害者およびその家族を中傷するようなことをいい、さらには「なぜ致傷じゃないのか」「化粧をしていたのか」「米兵と会話をしていたらしい」とレイプ自体を疑うかのようなことまで放言し出した人物がいる(被害者がケガをしていなかろうが、化粧をしていようが、加害者と会話をしていようが、レイプがなかったということにはまったくならないのだが)。
だいたい、「基本的なしつけ」がなされた人ならば(とわざと書いてみるが)、よっぽど相手が怪しげな様子でない限り話しかけられればそれなりに応答するものだろう。今回の事件については具体的なことは分からないが、自分の経験から考えれば、なんらかの下心や悪意を持った人が始めからそれをむき出しにして近づいてくるケースはむしろ稀だ。多くは道や時間をたずねるとか知っている人と間違えたフリをするとか他愛もない世間話をふってくるとか、そういうところから入ってくるのであって、当たり障りの無さげなやり取りをしているうちに少しずつ馴れ馴れしくなって来たりする。しかし、徐々に「なんかおかしいな」「この人変だな」と思い出しても、最初に普通の応対をしてしまっていると、急に厳しい態度に出るということは難しい。相手が表面上悪意を否定している段階では、下心丸出しどころか下心しか見えないような相手であっても「いい加減にして! あっちに行け!」などとはなかなかいえないものである。それでもある程度大人になってくれば適当にはぐらかしたり「イヤイヤイヤイヤイヤイヤ無理無理無理無理無理無理」などと強引にシャットアウトして逃れることも出来るようになってくるが、子どもの頃にはそれだって難しい。あるいは「怪しい」と気づいたからこそ余計にいえない、ということもあるだろうし、あまりにしつこくされて思考がほとんど停止してしまうことだってある。そんな中で「ちょっとだけ付き合えばあきらめるかも…」と考えてしまうことがあっても不思議ではない(今回の事件がそうだ、ということではなく。たとえ被害者が「自発的にバイクに乗った」のだとしても、レイプの有無とは関係ない)。
知らない人についていってしまった人が、「知らない人についていくのは危険だ」と考えていなかったとは限らない。危険だと思いつつも逃げ出せないことや、「下手に逃げるよりは安全かも」と判断することだってあり得る。危険な状況にすでに巻き込まれかけている段階では、「知らない人にはついていってはいけない」という規範的な物言いはほとんど役に立たない。それは「この状況から抜け出さなければ」という動機づけにはなるかもしれないが、どうやってその状況から抜け出したらいいかについて何も教えてはくれない。そして、たいていの場合、自分が危険な状況にあるかどうかということは、ある程度巻き込まれてからでないと知りようがないのだ。
イザという時に役に立たない規範を振りかざすだけで、大人としての責任を果たしたつもりになるな。子どもにとって(あるいは大人にだって)必要なのは、危険な状況から抜け出すための具体的なやり方なのだ。それを考えるつもりがないなら、「知らない人についていってはいけない」なんて生温いことをいわずに「知らない人に話しかけられても立ち止まるな。口を開くな。目を合わせるな。一目散に逃げろ」までいっておけ。そんな社会が望みなら、だけど。