macska dot org「鈴木謙介氏論文「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」と「弱者男性」論への疑問」

「このエントリを誇りに思っている」
             シモン・デビューボ


「ものすごく気に入った!」
             ジェン・ダーロール


世界中の女の子たちに
夢を与えた
パワフル・アンド・もっとパワフル・エントリ!


yamtomさんへのお告げを実現するために激賞しなければ、と思いましたが、やり方が分からずネタに走ってしまいました(あ、もちろん内容が激賞に値しないということではないです。単に「激賞」するのって難しいなーってことで)。


んで、このまじめなエントリかつ力作にこれだけでは失礼なので、感想を。
内容的には全く同意で、「『弱者男性』への配慮が必要」とか「『女性』だけに手当てするので十分なのか」という議論自体は正しいし必要だけど、男性が自らアクションを起こしてそのように主張をするのはドンドンやっていいと思うけれども、それが「フェミニズムは『弱者男性』にも配慮すべき」とか、「『弱者女性」よりも『弱者男性』(これはmacskaさんがいうように非異性愛者etc.が含まれていない、と想定して)を優先的に手当てすべき」となってしまうと、いや、やはり優先順位というものがあるだろう、と思う。ただ、コメント欄で鈴木氏ご本人が、「いずれ家族を支えることを期待され、市場原理に基づく自己責任を求められ、見通しも立たないのに必死で働かなければならない男性」=「弱者男性」ではないといっているので、ここでは置いておく。
私が鈴木氏の論文およびコメントを読んでもどうしても分からないのが、「いずれ家族を支えることを期待され、市場原理に基づく自己責任を求められ、見通しも立たないのに必死で働かなければならない男性」に対する手当て、というのが具体的にどういうものなのか、ということだ。コメントの中で「正社員/専業主婦を囲い込んで安定させるべきだとするコーポラティズム的主張には与しません。」とはいっている。また、「そうした競争から生じる不安について、何からの形で存在論的安心の核となる場を、政策的なサポートによって整備するべきである。」といっており、また、「一方で制度としての流動性を高めつつ、人びとの生活実感においては流動性への予期(流動性期待)の低い状態を確保する必要があります。」とある。が、それがどういうものなのかが私にはイメージできない。もちろん鈴木氏は理念として上のようなことが必要だと述べているのであって、具体的な方策についてはこれから議論すべきだ、ということなのかもしれないが。
けれども「いずれ家族を支えることを期待され、市場原理に基づく自己責任を求められ、見通しも立たないのに必死で働かなければならない男性」の手当てが、障害者や高齢者、シングルマザーなどが軒並み「自立」を強いられようとしているような現状でどのように可能なのか、というのがやはり分からない。ちなみに以前、ある女性が非常勤の仕事に応募して不採用になり、その理由を尋ねたところ「男性は家庭を養わねばならないから、もう一人の男性を採用した」との返事をもらったという話を聞いた。これが事実ならば、すでに「男性」への手当てはなされてきたのかもしれないし、その中で「男性」以外の人が排除されてきたのかもしれない、と考えることだってできるかもしれない(もちろんそこから漏れてしまう男性もいるだろうが、「排除」と「漏れる」のはやはり違うのではないか)。
あ、あと、「オトコだってツラいんだ!」ってのは男女共同参画関連の講演なんかでよく聞かれるフレーズだと思う(だから男女共同参画でその重荷を下ろしましょう、ってなことにつながる)。これは現状をみても分かる通り、共感を得られてはいない。むしろそれに対する反応として「なんだかんだいってもやっぱり「男は仕事、女は家庭」だ」とか「ツラくても口に出さないのオトコだ!」なんてのが出てくる。鈴木氏もこういう認識を変えることはできないから諦めろ、ということなのかもしれないし、それはある意味正しいと思うのだけれど。でもこれってまさしく「誰にとってもよりよい社会をつくるための政策的な議論」(p.134)をしようとした結果なんじゃあないかと(追記:あ、でも異性愛で、パートナーがいて、子どもがいて、みたいな男女像が前提とされてしまっているようなところはあるので、実際には「誰にとっても」とはなっていないけれども)。
うーむ、なんだか印象論ばかりな上にまとまらなくなってしまった…。