想像できる(できる気になる)ということ

id:demianさんのこちらのエントリを読み、コメントをし、さらにid:rnaさんからコメントをいただき、さらにさらにid:appuappuさんのこちらのエントリを読んで考えたこと。


まず、demianさんのところのコメントで、セクハラについてしばしば「自分の妻や恋人、娘がされたらイヤだと思うことはしない」という説明がなされること、私はそのような考え方が妻や恋人、娘を所有物と考える意識に基づいているようで好きではない、というようなを書いた。
するとappuappuさんがコメントで、そういう言い方は「自分の大事な人がそういうメにあうのは、シノビナイでしょ!許しがたいでしょ!」という意味だと思っていた、と書かれた。
それに対して私は、説明をする側はたぶんそういう意味で使っているんだろうけど、それは自分がセクハラしようとしている相手への共感にはなり得ない、という点でやっぱり好きな言い方ではない、ということを書いた。
で、これらのやりとりを通じて思い出した、ということでappuappuさんが「人と人が共感できたり、感情を共有をできたりするのは、どういう距離までなんだろう」というエントリを書かれた。


で、今日こういう事件のニュースがあった*1
飲酒車?に追突され乗用車が海へ転落、幼児3人死亡
<海中転落>子供3人死亡 追突した飲酒運転の男逮捕 福岡
叫ぶ母、わが子捜し4度海中へ 福岡3児死亡事故
家族の夏壊された 福岡市東区3児死亡事故 深夜、虫捕りの帰途
この事故現場は私が現在住んでいるところからそれほど離れていないうえに、私はよく休みに志賀島海の中道方面に遊びに行くのでこの橋はよく通る。実は今日も通った(志賀島に釣りに行くと決めていたので)。なので、今朝の朝刊でこの事件を知った段階でも現場の状況が大まかには頭に描けたし、さらに行き帰りに現場をみてさらに詳しく状況を知った。そんな中で、信号も少ない真っすぐな一本道で通常皆60km/h以上で走るような道なので加害者の車は相当なスピードを出していただろうとか、あの高さ、幅の歩道を乗り上げた上に欄干を突き破って転落するのはどんな衝撃だったろうとか、夜は街灯の光もほとんど届かないだろうと思われる中で海に潜って子どもを引き出す大変さとか、アーチを伝って水面近くに行くというのも普通の状況ではまず考えられないことなのにとか、でも実際あの橋の高さでは通りがかる人もほとんど何もできないだろうとか、いろんなことを想像した。さらに両親と子どもの年齢が近いこともあって、事故当時の両親の必死さとか、子どもが亡くなったと知ったときの辛さとか、自分と重ねあわせて想像したりした。


で、話を戻すと、他人に共感するかどうかは、他人の気持ちや状況を想像できるかどうか、というところにあるのではないか。だからこそ知っている人だとか、同じような状況の人(同じ年頃の子どもがいるとか日本人であるとか)の不幸に際してはより心が痛むのではないだろうか。もちろん本当に他人の辛さや悲しみを想像できるとわけではなく、こちらが勝手に想像できる気になっているだけなのかもしれないのだが。


で、さらに話を戻すと、セクハラが絶えない理由の一つは被害者に対する想像を働かせないことにあるのだろうなと思う。で、「自分の妻や恋人や娘が〜」というのは想像力を働かせようとする一つの試みなのだろう。でも、やっぱり私がこの言い方を好きになれない、あるいは根本的な解決にならないと思うのは、rnaさんが「ホモソーシャルな集団においてはその共感能力を遺憾なく発揮されるセクハラオヤジにおきましては、むしろ仲間に共感すればするほど仲間以外の他者への共感は抑制されてしまうのではないでしょうか」いうように、セクハラオヤジ*2が共感するのはあくまでもセクハラオヤジだ、という理由によるのだろうと思う。つまり、「自分の妻や恋人や娘が〜」という言い方をされて初めて自分の行為の問題に気づくような人間の想像力がおよぶ範囲というのはせいぜい「自分の妻や恋人や娘に手を出されちゃった男」の悔しさとか情けなさまでであって、セクハラされた「自分の妻や恋人や娘」の悲しさや悔しさではないのではないかと思うのだ(より正確に言えば、「自分の妻や恋人や娘」の悲しさや悔しさを考えたとしても、そこには常に「自分の妻や恋人や娘に手を出されちゃった自分」への想像が付随してくるのではないか、と。「自分の彼女がレイプされたら」みたいな話に関しても同様のことを思う)。だからこそ「自分の妻や恋人や娘が〜」という言い方は理解されやすいのではないか。けれども、そのような想像の仕方では決して被害者本人の悲しさや悔しさには到達しない。
もちろん自分の妻や娘の悲しさを想像できない人間に、赤の他人のそれを想像させるのは困難なことだろう。けれども安易に分かりやすさに流れるのではなく、あくまでも被害者本人の痛み、悲しみ、悔しさを想像できるように(想像できる気になるように)することをあきらめてはいけないんではないかなと思う。
…ああ、なんかまとまらないな…。

*1:最初この事件を中心に据えてなにかエントリ書こうかとも思ったのですが、なんかもう言葉が浮かばない。ただただ子どもさんたちのご冥福をお祈りします

*2:再度いっておきますが、セクハラするのは男性とも「オヤジ」とも限りませんが、あえて単純化して書いてます