強制的にボランティア(語義矛盾)

たまたま日テレの「太田総理…秘書田中。」をみた。泉ピン子が提案した(という設定になっている)マニフェストは「若者は老人ホームでボランティアすることを義務化する」というもの。番組の収録がいつだったかは分からないが、なんだかタイムリーといえばタイムリーなので、一番組のネタとはいえ考えてみる。
途中で風呂に入ったりして後の方はあんまりみてないんだけど、この提案に賛成する意見として主に二種類あったと思う。一つはピン子が主張する「最近の若者はマナーや道徳がなってないから、ボランティアで高齢者と接することで何かを学ぶべきだ」というようなもの、もう一つは松尾貴史なんかが言ってた「これからは高齢化で介護の担い手が必要になるから」というようなもの(うろ覚えなので多少間違ってるかもしれません)。
前者については反対派からも「子どもが老人ホームを訪問してとても嬉しそうだったし、高齢者にもいい影響があるようなのでそういう機会はあっていいと思う」みたいな意見が出ていたように思うが、そりゃ一日二日ならお互いニコニコ笑っていられるかもしれない。でもボランティアの義務づけ(語義矛盾)という以上、ある程度の期間を想定しているのだろうし、そうなれば楽しいことばかりじゃないはずだ。例えば私は自分の子どもはかわいくてしかたがないけれど、毎日つきあってれば一日に一回と言わず声を荒らげることだってあるし、イライラがつのれば必要以上に子どもにきつく当たってしまうことだってある。自分の子どもに対してだってそうなのだから、「義務」として接する高齢者に対して「若者」がどういう意識をもち、どういう態度を取ってしまう可能性があるか十分に考える必要があるだろうと思う*1。しかしそのようなことについて熟慮したとしても、そもそも、「高齢者介護のボランティアを義務化することで若者に何かを学ばせる」というのは、「若者」の「矯正」のために高齢者を道具化しようとするものだ。ならば「年長者を敬う気持ちがない」のは一体誰なのか。
後者について。高齢化が避けられず今後介護の担い手が必要不可欠になるのならば、あるいは介護が尊いかけがえのない仕事であるならば、まず第一にやるべきは介護者の待遇の改善ではないのか。やる気と専門的な知識と技術を持つ人材を継続的に確保したいならば、魅力的な(少なくとも最低限の)労働条件を整備することだと思う。けれどもおそらく介護の現場に関してなされていることはまったく逆のことだ。介護職(特にホームヘルパー)の賃金は驚くほど安いし、フィリピンからの看護師、介護士の受け入れが進められそうだが、これにだって「東南アジアの人材なら安く使える」「介護に専門性はいらない」等の意識がないといえるだろうか。シングルマザーの就業対策としてもヘルパー講習はしばしば行われている。そして「強制的ボランティア」(語義矛盾)ときた。以前ワーカーズコレクティブで高齢者介護(ホームペルパー派遣事業)をやっている人がこのようなことを言っていた。「自分は少なくともこの仕事をヘルパーが一人で生活できる水準ぐらいにはしたい。けれどもワーカーズだとボランティア的な意識の人も多い。『無償(に近い)だからこそ尊い』『ボランティアだから自分はやっている』という人も少なくない」。介護に対する(介護職も含めた)「一般的な」通念によって、介護は「(特に「女であれば」)誰でもできること」として、低い待遇に留め置かれている。このような状況は介護する側、される側にとってはたして望ましいことだろうか。

*1:もちろん「子ども」に対しては親の所有意識が働く可能性があるが