何かを擁護することが別の何かを排除する可能性

高市少子化相、下村副長官の子育て関連発言に反発

高市氏は「新聞報道でしか拝見していない」と前置きした上で「女性も生活のために働いている人もいる、歯を食いしばってキャリアを確立したい人もいる。いろいろな暮らし方がある中で一律に決められる問題ではない」とくぎを刺した。

今回は高市氏(の発言)を批判したいわけではなく。高市氏の発言に限らず、「○○すべきだ」という意見に対して「でもこういう人もいるじゃない」「こういう人はどうするの?」という言い方がよくなされると思う(私自身もやってしまう)。でも、例えば上の発言のように「生活のために働いている人もいる、歯を食いしばってキャリアを確立したい人もいる」といってしまうと、そこから漏れる「そこまで生活が苦しいわけではないけど、もう少しだけ豊かな生活がしたい人」とか「キャリア志向ではないけど、再就職には不安があるのでできるだけ働きつづけたい(早く復職したい)人」などは「やっぱり家で子育てすべきだ」になってしまうんじゃないだろうか(実際そう思ってる人も多いだろうとは思いますが。「そんなやつに税金使うな! 0歳児一人当たりに税金が云々…」とか。でもそういう人たちは認可外に子どもを預けるんだったら文句いわないんだろうか?とちょっと疑問。それに子どもをもつ男性が生活に必要な以上に働いたってそれを責められることは少なかろうと思うし)。「レイプで妊娠してしまう人を救うためにも中絶は認めるべき」「純粋に愛し合っているんだから同性愛を認めてもいいじゃない」などの言い方も、「自分の意志でセックスしたけど望まない妊娠をしてしまった人」「体だけの付き合いをしたい同性愛者」その他諸々の人たちを切り捨ててしまう側面を持ってしまう。もちろん「こういう人はどうするの?」という人が別の人たちを排除しようと思っているとは限らないし、むしろたいていの場合はたぶん思ってない、本当に善意からの発言じゃないかと思うんだけど、本人が意識する、しないに関わらずそういう言い方をすることが別の効果を持ってしまう可能性がある、ということを頭においておく必要があるかな、と自戒を込めて。