メディア・リテラシーと情報リテラシー

図書館断想:情報リテラシー教育という虚妄を読んで。
これは私の勝手なイメージなのだけれど、katz3さんが1段落目で述べられているような能力、いわば情報を批判的に読み解く能力は、日本では通常「メディア・リテラシー」と称されることが多いように思う。一方、図書館や電子ジャーナルの使い方、あるいはパソコンの操作方法などは、「情報リテラシー」と呼ばれ、katz3さんご指摘のように大学も含めた学校教育の中で行われる場合には「読み解き」の方ではなくこちらであることが多いようだ。
本来メディア・リテラシーには読み解くだけではなくメディアを使いこなす能力や情報発信力も含まれるはずだ。メディア・リテラシーへの取組みで有名なカナダを始め、欧米の方ではメディア・リテラシー教育は学校教育の中の(日本でいうところの)「国語」の時間に取り入れられ、「読み解き」と「制作」(自分たちで番組やCMをつくるとか)「発信」(自分たちで冊子をつくったり、インターネットでの発信の方法を学ぶとか)の両方を行うことが多いようなのだが、日本ではなぜかこれらが切り離され、メディア・リテラシーの方が軽視される傾向にあるように思う。また、メディア・リテラシー教育が行われる場合にも、行政等が行う講座も含め、「読み解き」の方に比重がかかり、「制作、発信」についての取組みまでは手が回らないこともあるようだ(もちろん、「制作、発信」に重点をおいた取組みを行っているグループ、学校もあるし、メディア研究者の村松泰子さんなんかもそちらの面での取組みが手薄なことを以前から指摘していたと記憶している)。一つには、現在学校教育で行われる場合には総合的な学習の中の一つとして行われたり市民講座の場合も単発あるいは少数回での開催が多いため、十分な時間が取れないことや、機材や教える側の人材確保の難しさという理由もあるのだろうが、いずれにしてもこれらの能力を包括的に身につけるための機会が得られることは少ないのではないかと思う。
だが、そのような機材、人材等の制限だけではなく、メディア・リテラシーに対する認識が薄いという側面も日本においてはやはりあるのではないかという気がしていて、例えば第一次の男女共同参画基本計画のメディアについての項目をみてみると、メディア・リテラシーについての記述が薄いばかりでなく、「児童」「青少年」「規制」「環境浄化」「取り締まり」などの文字が目につくように、かなり青少年の健全育成的な視点が強いように感じられる(ちなみに、以前勤めていた自治体の外郭団体の報告書の中でこの点について指摘した際、上司や同僚はみな「何が問題なの?」という反応で結局削除させられた)。
思うに、日本では「メディア・リテラシー」とか「批判的読み」がしばしばバラエティ系の番組に「けしからん」と思う力だと誤解されていて(メディア・リテラシーという言葉は知らなくとも)、しかも多くの大人は(何の根拠もなく)自分はそれを自然に身につけているが、一方で子どもにはそのような力がないと決めつけてしまっているのではないか、その一方で「情報リテラシー」については、自分たちの知識や経験が浅いが故に「これは力を入れてやらないと」と思っているのではと感じる。いや、まったくの主観ですが。ただ、私がこれまでに参加したり関わったメディア・リテラシーの講座において、その前に「メディア・リテラシーとは何か」という説明を受けているにもかかわらず、バラエティ番組のビデオをみて「私はこんなふざけた番組は見ませんから(NHKの番組しかみませんから)」と言い放つ人や「大人は判断力があるけど子ども達は影響されるでしょう」と語る人がいたり、ある講座でドラマの『ER』と『救命病棟24時』を比較してみましょうということをやった時に、「ERは多様な人が出てるけど、日本のは偏ってる」「ERはすごくリアル。日本の現実感が全くない」などと『ER』礼賛のコメントが続出するのをみたり、またネット上でも 「日本の親にメディアリテラシーは無いのか」といいつつこのようなことを語っている人をみると、そういう側面ってやっぱりあるのではないかな、それが日本でメディア・リテラシー教育が広まらない一因ではないかという気がしたりするのである。