「同じように育ててるのに」?

「同じように育ててるのに、お兄ちゃんは車(電車、ヒーロー…)とか好きで、妹はお人形(お花、おしゃれ…)に興味を持つんだよね。やっぱり男と女って違うんだよね〜。」


リアルでもネット上でも時々耳(目)にすることがある。こういう物言いで誰か(何か)を批判しようとしている場合はともかく、素朴な実感として口にする分には「たった一つのサンプルで(ry」とかつっこむつもりはないのだけれど、やっぱり気になること。
例えば私は息子に「男でしょ」「男のくせに」とは言わないし、おもちゃも電車や野球のおもちゃからままごとセットやぽぽちゃん人形まで与えているけれど、スカートやフリフリのブラウスをあえて着せることはしない(本人が着たいと言えば着せてもいいんだけど、それでも家の中に留めるだろうと思う)。「同じように育てている」つもりでも、やはりいろいろなところで「男の子としての扱い」「女の子としての扱い」をしているのだと思うし、それはある意味当たり前だ。親だってジェンダー化されているんだし。
ところで、先日公園で会った二卵性双生児の女の子たち。一人の子はおとなしめで、泥団子づくりに熱中。もう一人の子はとても活発で、初対面のわが子を引き連れマジレンジャーごっご。高いところでポーズをとり、恐がり慎重派の息子の方が「危ないよー!降りてー!降りてー!」と下から呼びかけていた。おそらく彼女たちは、少なくとも性別の異なるきょうだいよりはずっと「同じように」育てられてきたと思うのだけど(お揃いの洋服だったし)、でも性格はとっても対照的だった。彼女たちをみれば多くの人は「双子(姉妹)でも全然違うねー」と思うだろう(ちなみにこのようなケースでは「同じ女の子でも全然違うねー」とはあまりいわれない気がする。いや、なんとなくだけど)。
そう、一人ひとり性格が違うのは当たり前。みんなそれを知っているはずなんだけど、同性間ではその子の「個性」とみなされるものが、異性間になると「その性別一般の特性」とみなされてしまうのはなんなのだろうか。