死刑についてちょっとだけ考えてみた

産経抄8/28

本日のテーマは、内閣改造で決まりのはずだったが、書かずにはいられない。名古屋市の住宅街で、男3人が見ず知らずの31歳の女性を拉致し、金を奪って殺害、岐阜県の山林に遺体を捨てた事件のことだ。
▼女性が自宅を間近にして、ミニバンに引きずりこまれたのは24日の午後10時ごろ。夜遊びしていたわけではない。普段は午後7時半ごろ帰宅しているが、この日はたまたま午後からの仕事で遅くなっていた。幼いころ父親と死別し、母親との2人暮らしだった。
(中略)
▼事件発覚のきっかけは、男の1人が、愛知県警にかけた電話だった。罪の重さに耐えかねたというより、「死刑が怖かった」かららしい。身勝手きわまる言い分だが、その後も繰り返されたかもしれない凶行を、「死刑」が抑止したともいえる。死刑廃止論者たちはこの言葉をどう聞くだろうか。

「夜遊びするような女なら事件に巻き込まれてもしかたがない」とでも言いたげ*1なのとか事件を持論の補強に利用しようとしているのとか正直腹立つのだけれど、この文章をもとにちょっと考えてみた。
「その後も繰り返されたかもしれない凶行を、「死刑」が抑止したともいえる」。第一の凶行に対する抑止力にはならなかった、という点はとりあえず置いといて。「死刑が怖かったから自首した」のが事実であるとして(続報によればそれだけではないようですが)、それは「死刑」の抑止力なのだろうか。自首した男は「死刑が怖かったから次の犯行を思いとどまった」のではなく「死刑が怖かったから自首した」のである。つまり自首することによって死刑を免れることができると考えたのであって、だとすれば自首を促したのは死刑そのものではなく「自首減刑」の規定、およびそれについての知識(ただし、Wikipediaによれば実際に自首減刑がなされることは少ないということなので、自首減刑についての誤った知識?)なのではないだろうか。もしも自首減刑の規定がなかったら、自首減刑について男がまったく知らなかったら、実際に自首減刑がなされることが少ないと男が知っていたら、男はただ逃げ続けたかもしれない。
とはいえ、死刑制度と自首減刑が同時に存在し、なおかつ人々が自首減刑についてなんとなく知っている程度、という現状においては、この事件と同様のケースは起こりうるだろうと思う。けれども、死刑肯定論には「重大な罪を犯したものは相応の罰を受けるべきだから」というものもある。この論を支持する人は、自首によってその人が本来受けるべき刑を減刑されるということを看過できるのだろうか。そう考えると、「死刑が第二、第三の凶行への抑止力になる」という視点と、「重大な罪を犯したものは相応の罰を受けるべき」という視点は本来対立するものなのではないだろうか。産経の立場は前者に限定されるんだろうか。そうは思えなかったんだけど。
まあそもそも、レアケース(だからこそ内閣改造もそっちのけでテーマに取り上げたのであろうし)を取り上げて死刑の抑止力を云々することが不適切なのだろう。もしも「どうせ死刑になるんだから一人殺しても何人殺しても一緒」と犯行を繰り返す者がいた場合、「その後も繰り返された凶行を、「死刑」が推進したともいえる。産経新聞はこの言葉をどう聞くだろうか」と問うことだってできるのだから。

*1:実際に産経抄は沖縄の米兵による暴行事件でそういうことを書いていたような。うろ覚えなので間違ってたらごめんなさい。