ダイエー・藤井将雄物語

またもホークス関連で。



今日、10月13日は元ダイエーホークス炎の中継ぎ藤井将雄投手の命日でした。ホークスが初優勝した1999年、中継ぎのエースとして大活躍しホールド王を獲得した藤井投手は、シーズン終了直後に「肺ガンで早ければ余命3ヶ月」との診断を受けます。そしてそれから約11ヶ月後、32歳の誕生日を目前にして亡くなりました。ただ、本人の野球に対する希望(=生きる希望)を失わせてはいけないというご家族の判断から、藤井投手本人、そして表向きには「間質性肺炎」と伝えられており、また、夏頃には2軍の練習に復帰し、試合での登板もありましたので、藤井投手の訃報は本当に青天の霹靂でした。
この本は藤井投手のお母さんの正子さんと妹のマリ子さんが、藤井投手の生い立ちや闘病の様子を綴ったものです。この本と、藤井投手が亡くなる数週間前に知った公式サイトの日記や掲示板を読んで、藤井将雄という人のすばらしさをひしひしと感じました。例えば、2軍での練習時、外国人投手が1人で寂しそうにしていると英会話のCDを購入して行き帰りの車の中で聞いていたとか、キャンプ中に出店のおばちゃん達にも一番大きな声で挨拶していたとかファンの子が捨てた紙くずを拾ってゴミ箱に捨てていたとか、本当に裏表のない、優しい気配りの人だったのだということ。
また、単に優しいだけではなく、非常に強い心を持っていたこと。例えばこの本に序文を寄せた王監督によれば、「もし『バッターぶつけろ」といえば、おそらく平気でぶつけられるほどの勝ち気な性格です」とのことでしたし、中学生の頃に別居していたお父さんの死に直面したときのエピソードなどからもそのことがうかがえます。ちなみに、幼い頃にご両親が別居され、お母さんの正子さんは魚介や乾物の行商をして3人の子どもを育てたとこのことでした。また、藤井投手が20代の頃には交通事故でお姉さんを亡くされたとのこと、3人の家族を若くして失われた正子さん、マリ子さんのことを思うと胸が痛みます。
残念ながら版元の倒産により絶版になってしまっているとのことです(復刊ドットコムでの投票は100を超えているのですが、まだ復刊は果たせていないようです)が、できれば古本、図書館等で入手していただき、1人でも多くの方に読んでいただきたい本です。また、公式サイトの日記、「それ行けまちゃお!」も是非読んでいただきたいです。


藤井将雄公式ホームページ

ひとまずここで一部を引用させていただきます。ガンの宣告を受け、おそらく抗ガン剤も放射線も効かないといわれた正子さんとマリ子さんが、せめて漢方薬を試してみたいと考えたものの、本人にガンであることを悟られてはならない。おそらく尊敬する王監督のいいつけならば飲んでくれるのではないかと王監督に連絡を取ろうと試みたときのエピソードです。

病院を出ると、兄が大変なことになってしまったと気が動転してしまったわたしは、王監督にそのことをなんとか伝えなければいけないと思い、球団に電話をしました。(中略)
「藤井の身内ですが、王監督に伝えたいことがあって連絡を取りたいんですが、連絡先を教えていただけませんか?」
そういうと電話に出た球団職員の方は、「どういうご用件でしょうか?」と尋ねてきたので、困りました。
まさか兄にも伝えられない病気のことを、電話で話すわけにもいきませんから、「いえません」と答えると再び質問されました。
「ご本人は知っているんですか?」
「本人にいえないから電話しているんです」
「ご本人に確認しないと、いえません」とおっしゃるので、「それじゃ、もういいです」とあきらめて電話を切りました。
それから車の中で、二人で声をおさえることができず、大泣きしていました。
すると、五分もしないうちに、わたしの携帯が鳴りました。が、すぐには出ることができず、十回ほどのコールのあと電話に出ると、兄の声だったのでビックリしました。
「いま、球団から電話があった。電話をしたって本当か?」
兄から電話がかかってくることなど予想もしなかったわたしは、頭の中が混乱し、どうしようかとオロオロしていると、横から母が、小声で助け舟を出してくれました。
王監督に『いりこ(煮干し)を送りたい』といいなさい」
それで、母のいうとおり伝えたら、兄から怒鳴り声が帰ってきました。
「バカか! お前は。監督は『いりこ』なんか食べん!」
じつは、兄はその言い訳を死ぬまでずっと信じて、その後も「なぜ、わたしが監督に電話をしたか」について、一切尋ねることはありませんでした。(中略)
将雄はその時のことを別の友人たちに、面白おかしく語っていたようです。
「ウチの家族は放っといたら、何するか分からん。『監督にいりこを送りたい」いうて、球団に電話するんよ。どう思う?」

絶望的な状況での正子さんの機転に、笑いながら泣いてしまいました。